[自転車選手名鑑]クリス・フルーム[第 1 回]

はじめに

自転車界の偉大な選手をフォーカスしていく選手名鑑コーナー第 1 回は、ロード界で今、最も注目を浴びているこの人、クリス・フルーム選手です。

休憩中の心拍数 29 回/分、400W の脚力を持つ正に超人的な彼は、奥様に言わせると ”恥ずかしがりや、静かで礼儀正しい。そしていたずら好き。”とのこと。

そんなフルームを今回はフォーカスしていきます!

プロフィール

本名 Christopher Froome(クリストファー・フルーム)
愛称 FROOMEY(フルーミー)
生年月日 1985年5月20日
国籍 ケニア -> イギリス
身長 186cm
体重 67.5kg
脚質 オールラウンダー
(*TAEM SKY 公式サイトには ステージレーサー・クライマーと紹介されています。)

所属チーム

2007 コニカミノルタ
2008–2009 バルロワールド
2010–現在 チームスカイ

幼少時代

クリス・フルームはツールで活躍する選手では珍しく、アフリカにルーツを持ちます。両親の仕事の関係で彼はケニアで生まれます。兄弟は兄が 2 人の 3 人兄弟、幼少の頃に両親は事業の失敗を期に離婚。兄達はイングランドの寄宿学校に通っていましたが、金銭的な事情で母とフルームはアフリカに留まることになります。その頃、フルームはケニアのサファリ・シンバズレーシングチームにてロードレースを学び始めます。この時からの高地トレーニングが、後にこの素晴らしい選手を生み出すことになります。

その後、父を頼り南アフリカに引っ越すことになった彼は、プロ契約を行う日まで南アフリカで過ごすことになります。ヨハネスブルグに引っ越した後もフルームは高地トレーニングを続け、2006年、ツアー・オブ・モーリシャスで総合優勝を飾ります。

プロ契約と渡欧

2007 年、UCIの選手育成特別チームでレースをするためヨーロッパに渡り、ベルギーのコニカミノルタに入ったフルームですが、豊かな才能にも関わらず、それをうまく生かす事ができません。他の選手と違い、アフリカではロードレースの公的な協会など名前だけのものだっために、本来ならば学生時代に学ぶ戦術やその他の多くのことを、フルームはプロ選手になってから学んでいくことになります。

自信のルーツ、イギリスへ

翌年の 2008 年、フルームはイギリス国籍でレースに参加することになります。祖父母の故郷であり、また、国のプロへの手厚いサポートを考えての国籍変更でした。この年から 2 年間、フルームはバルロワールドに在籍しレースを走りますが、バルロワールドのレースからの撤退を期に TEAM SKY へ移籍することになります。

TEAM SKYへ

2010 年、新設チームへ TEAM SKY へ移籍したフルームでしたが、その頃から今に至るまで、ビルハルツ住血吸虫症に苦しめられることになります。日本では聞きなれない名前ですが、寄生虫が体内に入ることにより、人の免疫反応で皮膚炎や発熱、また、内臓にダメージをおよぼすという病気です。適切な投薬により症状を抑えることができるまで、フルームはトレーニングに打ち込むほどに悪化する症状と戦うことになります。

2011 年、フルームは TEAM SKY でアシストの役割を与えられていましたが、自分の実力が不当に評価されていると感じていました。そんな中、自分の実力をアピールすべく、三大ツールの一つ、ブエルタでアフリカ出身選手として初のマイヨロホ獲得・最終成績も総合 2 位と TEAM SKY のエース・ウィギンスの 3 位を上回る成績を残し、チームに翌年のエース待遇を要求。チームはこれを受け入れます。
*ウィギンスはこの時点でオリンピック金メダルを 3 個獲得するほどの選手!

2012 年、契約を更新したフルームでしたが、翌年の TEAM SKY は約束を反故にし、エースは変わらずウィギンス、フルームはアシストとなります。当然、納得できないフルームは、実力行使に出ます。ツール・ド・フランス第 7 ステージにて、その実力を発揮し優勝。チームに自分の方がエースに相応しいことをアピールします。しかし、変わらないチームの対応、また、ウィギンスはフルームに対し、アシストの仕事を全うするように、と発言を行います。チームとウィギンスの態度はフルームをさらなる強硬手段に向かわせます。
*日頃からウィギンスは、フルームのアシストに対して感謝の気持ちを伝えることは、あまりなかったそうです。出自の違いから来る当時の人気の差も関係があったかもしれません。

そして、事件は起きます。ツール・ド・フランス 11 ステージにて、チームメイトのウィギンスに対してアタックを敢行します!最終的にはチームマネージャーに諭されてアタックを中止したフルームでしたが、最終的にはウィギンスのツール初優勝をアシストするという自分の仕事を全うし、さらに自身も総合 2 位でレースを終えことになります。

フルームの黄金時代へ

大きな不満の中でシーズンを終えたフルームでしたが、2013 年の彼は大きなステップアップを遂げます。彼はウィギンスに変わり、自身の総合優勝のために走ることになります。そして、この年、フルームはツール・ド・フランスの勝者となり、ロードレース界最大の名誉 “マイヨ・ジョーヌ” を手にするのです。

その後、2015、2016とツール・ド・フランスで総合優勝。他にも数多くの優勝を重ねるこの選手に、疑惑という敵が現れます。

ドーピング疑惑

アンチが出たら一流、なんてことも言いますが、あまりにも強すぎるフルームにも、そんなアンチからドーピング疑惑が掛けられます。

それは遠くない昔まで、ロードレース界とドーピング問題は切っても切れないものだったことが背景にあります。2012年、アメリカの英雄ランス・アームストロングのドーピングによるツール 7 連覇取消のニュースはロードレースに興味の無い方でも知っているかもしれません。

心無い人間はフルームの実力を疑い、過激な人間が汚物を投げつけたこともあります。フルームは言いました。「育ってきた英国の価値観に鑑みて、僕はみんなにこれが僕なのだということを見せることができたと思うし、その上で彼らが非難していることを僕は理解できない」と。

フルームは毎年80回以上検査され、2013年には1日に3回の検査を受けています。それは、トップ選手の宿命なのです。

2017 グランツール 2 冠

2017年のフルームはツール・ド・フランス 3 年連続総合優勝。2017年はブエルタでも総合優勝し、グランツール 2 冠達成など、またも記録に残る勝利を重ねていきます。

2018 年のツール・ド・フランスも連覇できるのか!?とっても楽しみです!

参考サイト
Privatter hinakamo? 様
"The Telegraph紙のクリス・フルーム インタビュー記事を訳してみました"
http://privatter.net/p/1605738

サッシャ オフィシャルブログ 様
"フルームとウィギンスの確執の真実"
https://ameblo.jp/saschaboeckle/entry-11862380539.html

主な成績

グランツール優勝回数

ツール・ド・フランス( 4 回)2013,2015,2016,2017
ブエルタ・ア・エスパーニャ ( 1 回)2017

オリンピック獲得メダル

ロンドンオリンピック(2012)男子個人タイムトライアル 銅メダル
リオデジャネイロオリンピック(2016)男子個人タイムトライアル 銅メダル

その他の UCI 公認レース総合優勝

2013年
ツアー・オブ・オマーン 総合優勝
クリテリウム・アンテルナシオナル 総合優勝
ツール・ド・ロマンディ 総合優勝
クリテリウム・デュ・ドフィネ 総合優勝
2014年
ツアー・オブ・オマーン 総合優勝
ツール・ド・ロマンディ 総合優勝
2015年
ブエルタ・ア・アンダルシア 総合優勝
クリテリウム・デュ・ドフィネ 総合優勝
2016年
ヘラルドサン・ツアー 総合優勝
クリテリウム・デュ・ドフィネ 総合優勝

最後に

心に残ったフルームの言葉

2011年、フルームはブエルタにてアフリカ出身選手として初めてマイヨロホ・リーダージャージに袖を通した選手になりました。これはその時に CYCLINGTIME による独占インタビューで語っていた彼の言葉です。

僕はこのマイヨロホを、自分の国でサイクリングは盛んではないけれどそれでもサイクリングをやってみたいと思っている世界中の子供たちへのメッセージとして活用したい。『このレベルには手に届かない、なんて思っちゃだめだよ!』ってね。

CYCLINGTIME.com クリス・フルーム独占インタビュー
ケニア出身のフルーム、ブエルタで夢を叶える
http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=18725

生まれた境遇は関係なく、努力すれば素晴らしい結果を残すことができる!ということを、身をもって証明してくれたフルームならではの説得力のある言葉ですね。
それでは、今回はこのあたりで失礼します。

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